『パウロ・フレイレを読む』
亜紀書房
著者 モルシア・ガドッチ
紹介者 福田和博
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私はパウロ・フレイレに出会って、自分の知る世界が大きく変わった。最初に読んだのは『被抑圧者の教育学』(亜紀書房)であった。大学の卒業論文を書くときの参考にした。卒論のテーマは「反差別意識の形成ーマイノリティグループの研究ー」であった。この本によって差別・抑圧を社会的に捉えることを学んだように思う。しかし、難解でありどれだけ理解していたのかは疑問が残るが。
最近も自分に自信がなくなるときこの本を読む。難解だから、声を出して読む。1日に30ページ程度を区切りにして、繰り返して読む。そして自分の世界を捉え直す。
フレイレの日本語になっている著作には『自由のための文化行動』(亜紀書房)、『伝達か対話か』(亜紀書房)などがある。これもぜひ読んで見てはどうだろうか。
今回紹介したいのは、フレイレのパートナーの一人が書いた本である。フレイレ自身の著作ではないが、フレイレの思想を時間軸に沿って説明してあるので読みやすい。フレイレの「解放教育」への思想をぜひとも読んで見ませんか。 |
『排除と包摂の社会学的研究』
批評社
著者 八木晃介
紹介者 福田和博
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著者八木さんは、毎日新聞社の記者時代から一貫して部落問題を中心にして差別問題に取り組んでこられています。その間の著者自身の研究のまとめをされたのがこの本です。部落解放研究に接近する方法には様々ありますが、社会学的にアプローチする好書です。本書の中には、国内外の多くの方の引用があり、それが読みにくくしている面はありますが、多くの研究成果を知る機会になると思います。
八木さんには、本年度当研究所の第5回部落解放の集いでもご講演いただきました。また、当研究所の差別事象検討教材化委員会にも再び来鳥いただき、研究協議に参加していただきました。その間研究所も京都の花園大学八木研究室を3回も訪ね助言をいただいてきました。
八木さんについては様々な意見がありますが、それは彼の批判的な側面に集中されるのだと思います。しかし、学ぶことの多い研究を精力的に進めています。そのまとめとしてこの著作をお薦めします。 |
『人種差別』
りぶらりあ選書
著者 アルベルー・メンミ
紹介者 福田和博
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アルベール・メンミが広く知られているのは、彼の差別の定義によるところが大きいです。
その定義とは、本書にはこうあります。「人種差別とは、現実の、あるいは架空の差異に、一般的、決定的な価値づけをすることであり、この価値づけは、告発者が自分の攻撃を正当化するために、被害者を犠牲にして、自分の利益のために行うものである。」(P4)この定義は、『差別の構造』の定義からは多少洗練されていますが、内容は変わっていません。この定義の重要な点は(1)差別者は架空な差異も用いること(2)差別が差別者の正当化によること(3)差別は差別者に利益をもたらすことです。この定義が「差別者」からの定義であることがよくわかります。そして「いずれにせよ、差異は告発者のために使われる」(p4)と明言して、差別者の恣意性の問題に切り込んでいくのです。また、彼はこの図書の出版の意図については次のように述べています。「…人種差別と、私が異質性嫌悪(ヘテロフオビー)と名づけるよう提案したものの記述、解釈、定義を提出することだ。実際、今も私の考えは変わらない。差異こそが人種差別の軸なのだ」(p2)と。 |
『汚穢と禁忌』
思潮社
著者 メアリー・ダグラス
塚本利明訳
紹介者 福田和博
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近年、部落解放研究と「ケガレ」の問題を安易に関連付ける書籍が多い中、これは是非とも読んでおきたい書籍です。ダグラスは、文化人類学的手法で、汚穢、禁忌、聖化、浄化などを研究しいています。この研究は我々の社会の「秩序」、「組織」の成り立ちを読み解くのに大きな参考になると思います。この著書には差別を支える社会を明らかにする視点があります。この文化人類学の著書は部落解放研究にとっても不可欠な存在です。
同時に先号で紹介した『排除の構造』(今村仁司、ちくま学芸文庫)をあわせて読むといいかと思います。非常に難解ですが、部落解放を理論的に考察するならば、読んでおきたい図書です。 |
『〈在日〉という根拠』
国文社
著者 竹田青嗣
紹介者 福田和博
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この著書には「在日」の作家の李恢成(イヘソン)、金石範(キムソックボム)、金鶴泳(クムハクヨン)が取り上げられています。また文中には常のどこかに著者が明示されているように思います。「在日」という存在は「日本」「朝鮮」「パンチョッパリ」とさまよい、「自己確認」「帰属場所」を模索しています。それは一世とは異なる、二世の姿でもあり、「危機」でもあります。「…(世代間の)確執は『終身斉家』を生活感情の基底として強調しなければならぬ〈父〉の世代と、社会的な『帰属場所』をまず定めることではじめて生活基盤の通路を与えられるような〈子〉世代との確執であ」(p45)ると。しかし、「この『帰属場所』の発見は、それ自身第二の『危機』を意味していたように私には思える。」(p52)と述べています。この「危機」すなわち「アイデンティティ・クライシス」に関して、「あとがき」では著者自身のことを哲学者のミッシェル・フーコーを引用しながら述べています。
敗戦後の「日本」が生の様式の中ではらんでいる近代的人間関係の問題を「私」の問題として考える契機になればと願っています。「生活世界」と「私」をみつめる一冊になればと願っています。 |
『哲学ってなんだ』
岩波ジュニア新書
著者 竹田青嗣
紹介者 福田和博
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竹田青嗣が在日韓国人二世であることを先の著書で紹介しました。彼は哲学者であり、その著作は数え切れません。しかし、おもしろいのは彼の著作は一貫してわかりやすいことをめざしていることです。ここにも「在日」が関係しているように思われます。さらにいえば、彼の哲学への契機が「在日」と関係しています。いわゆる「アイデンティティ・クライシス」に置かれたとき出合ったのが哲学、文学、音楽なのです。本書の中で、「…わたしは日本生まれの在日韓国人二世なのだが、大学にはいってはじめて自分の民族の問題に出会った。(中略)20過ぎから30過ぎころまで、わたしはそういう自己喪失の状態にあった。そういうとき、わたしの前に現れた救いの蜘蛛の糸が、文学とか哲学の世界だった」(p7〜9)と述べています。
また、在日本朝鮮人総聯合会鳥取県本部委員長の朴井愚(パクチョンウ)さんも「哲学」と「アイデンティティ」の問題にはこだわりつづけています。どうも、差別という問題を考えるとき、哲学的思考は重要な方法だということなのだと思います。
著者にとって哲学とは、「わたしなりに言うと、それは、自分や自分の周りの世界について当たり前と考えていること、自明になっていることを、もう一度しっかり深く自分で考え直すための思考の方法である。」「『真の世界』というものも、『世界の真理』というものも存在しない。われわれはさまざまな世界像をもち、さまざまな多様な価値と欲望を抱きあってお互いに関係しているだけだ。だから、世界を知るということは、世界それ自体を知るということではなくて、世界についての自分の理解のありかた、また自分と他人との関係のありかたを了解する、ということなのである」(p198)と。
さらに現象学なのであるが、現象学については次の一冊を推薦します。 |
『現象学入門』
NHKブックス
著者 竹田青嗣
紹介者 福田和博
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「現象学」という学問はなじみがないものですが、この現象学の認識に関する方法は、部落解放研究においては不可欠のように思われてなりません。気になる個所の一部を引用してみます。
「現象学の課題はむしろ、まず〈主観/客観〉の『一致』をめざす伝統的認識論は成立しないこと、さらに、論理的には成立しえないはずの人間の共通認識がじっさいにはそれなりに成立していることの理由、またしかし、伝統的認識論の不可能性から認識一般を全否定する必要はなく、そこにある正当性があること、つまり認識の意味を明らかにする点にある。」(p73)
「問題の核心は、『一致』の確証はありえないのに、なぜ人間は客観の実在を疑えないものとして受けとっているのかということに答える点にある。」(p73)
「…『客観が存在する』ということを前提する限り、自分の認識のコードの『正当性』の根拠を検証できない…。」(p79)
「…フッサールによれば、一見それ自体で自立しているように見える自然科学や数学などの客観的な学の世界は、じつは生活世界における人間の実践的な関心のありようによって、その客観性や正しさ≠フ基礎を与えられている。ところが、近代科学の成果は、このふたつの世界(生活世界と学的世界)の関係を逆転させ、学的、理念的な世界こそ確実で客観的世界であり、生活世界はただこの客観性の一面的な現れにすぎない、主観的で相対的な世界だと見なすにいたった。このために、学問の意味が「空洞化」したのである。」(p219)
「わたしは若く率直な読者たちが、現象学からそのようなエッセンスを受け取り,時代の潮流に抗して、時代の新しい課題を自分なりの生の中から見いだす可能性を信じている。現象学は、その社会の人間の生活のありようからだけ、時代の問題の「本質」を取り出しうる主張するからだ。」(p238)
現在の部落解放研究の展望には欠くことのできない認識論が横たわっているように思えてなりません。是非とも参考にしていただきたいと思います。 |
『現代思想の冒険』
ちくま学芸文庫
著者 竹田青嗣
紹介者 福田和博
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哲学、現象学はやっぱり難しいのだが、竹田青嗣にはこだわってみる価値があると思います。。
先にも触れましたが、彼の著作へのエネルギーには〈在日であること〉が横たわっているのです。〈わたし〉と〈世界〉をどうとらえていくのか。これは部落解放を展望する私たちの問題意識と常にリンクしていると確信しています。また、現象学でいうところの〈わたし〉が〈生活世界〉を見ている視点と、わたしたちが〈差別の現実〉を見ている視点が非常に重なっていると思います。
さて、紹介の図書ですが、彼の著作の中でも、思想の変遷に関する著作です。現象学に至る経過を述べてるのですが、気になる部分を引いてみます。
ソシュール言語学の見方に触れ、「ヨーロッパの哲学や認識論を通底していた『実在論』の発想を打ち砕き、『関係論』という新しいパラダイムを導き入れる重要な転回点になったということを指摘している。」(p42)そして、「客観的な事物の秩序(実在の秩序)があり、それを言葉が呼び当てるのではなく、むしろ人間の言語行為が、いわば網の目のように絶えずこの秩序を作り上げており、しかもまた絶えずそれを編み変えていくのだということである。この見方は、すでにすこし触れたように、人間は事物の『実在』に対して言葉を介して向きあっているのではなく、むしろ言葉は、人間が事物に対して取っている実践的な『関係』を表現しているのだという新しい観点を導くことになったのである」(p44)と。
現在、当研究所でも差別事象の分析研究を本格的に始めたところですが、近代以降の差別という現象で、その時々において使用される言語(差別語)は推移しているのです。現在の子どもたちも、かつては「差別語」として使われなかったものを選び取り、差別関係を質を変えながら受け継いでいるのです。このような現象を読み解く一つの手がかりになるのではないかと思います。
また、構造主義に触れ、「レヴィ=ストロースとラカンの構造主義はちょうど、『世界(社会)について』と『自己(人間)について』というふたつの部分に見出される人間の無意識の"構造"をそれぞれ受け持っている。構造主義はこのように、社会や人間のありようを、目に見える制度のメカニズムの説明としてではなく、むしろその背後に隠されている、より普遍的な『構造』として捉えようとするモチーフを持っていたのである。」(p50)結局、言語の意味内容をどれだけ厳密に分析しても、何が言葉の体系を作っているのかはわからないことに行きつくのです。そして、現象学なのですが、現象学についてはGの図書を読んでいただく方がよいかと思います。そのような思想の流れを読み取る好書なのです。是非とも読んでほしいと願っています。 |
『解放教育入門』
批評社
著者 八木晃介
紹介者 福田和博
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八木さんについては最初にも紹介したが、この著作は大学生へ向けたテキストを想定されたそうです。本著の書き出しは、「公教育制度は、すでにある社会的差別に文化的基礎を与えるものである」というアンドレ・ゴルツの引用からはじまっています。「同和」教育に熱心に取り組んでいると自負している人には、受け入れ難い言説であるのかも知れませんが、しかし、警戒心はもちながらも是非とも読んでいただき、読んだ上で議論をしていただきたいと願っています。
当研究所の差別事象分析研究において、「差別する」状況を明らかにして行くことを中心に据えた契機はこの著作にあります。すなわち「被差別者はなぜ差別されるのか」ではなく、「差別者はなぜ差別するのか」(p37)という個所に強く影響されています。さらにはアービング・ゴッフマンのスティグマ論に部落解放研究の示唆を受けてのことです。
いずれにしても、この著作は多くの研究の積み上げが基礎となっています。「同和」教育関係の著作の多くが過去の研究とは関係なく成立している現状況の良し悪しはわかりませんが、少なくとも独自に研究し、理論を構築するより、過去の研究を批判、検証し、積み上げるのもいいのではないでしょうか。
八木さんの著作ではそうした過去の研究が誰の、どの本で、どのように書かれているのかがよくわかります。それだけでも大きな研究になると思います。
八木さんのいうところの解放は「差別される状態が一切ない状態」ではなく、「解放は状態ではなく過程である」(p47)と、その過程をともに築いてゆきたいと願っています。 |
『反差別論―無根拠性の逆説』
明石書店
著者 柴谷篤弘
紹介者 福田和博
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生物学者の柴谷さんは、一貫して差別という問題に取り組んでこられています。なぜ生物学者の彼が差別という問題にこだわるのか不思議なのですが、彼は当然のことだといいます。彼が一貫して「差別の無根拠性」を主張しています。ところが現実には人間は無根拠であるはずの差異をもって差別するのです。そこには近代社会によって築かれている「科学」が大きく関与していることを指摘しています。特に科学に関して、「…科学をもちこんでも、通常は社会問題の解決にならない。それが解決になると、過信することによって、原発、遺伝子操作、エイズ、環境などの問題がかえって不透明になることがおおい。問題は実は社会的なものであり、基本としては、社会的に解決されなければならない。」(p27)と述べています。そして自らを、多数者になることを避け、少数派を強いられたわけでもないが好きだとしています。近代社会において科学は差別を隠蔽しているからこそ、著者が差別問題に取り組まなければならない必然性があるのです。近代的人間関係を読み解く一冊です。 |
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