No. 6

本日の例会 
2014年8月5日(火) 第2615回
◆君が代・奉仕の理想
◆献立 100万ドルミール
◆委員会事項 誕生日御祝
◆卓話  「パレスチナの農業と今後の援助」  田村文男さん  
※10:30〜クラブ協議会練習
例会後 定例理事会「梨花の間」、8/12 休会

次回の例会
2014年8月19日(火) 18:00から 第2616回
◆ロータリーソング  我等の生業
◆献立  パーティー料理
◆納涼夜間例会  鳥取ゴルフ倶楽部レストラン

先 週 の 例 会
2014年7月29日(火)

会長挨拶  
1914年7月28日、昨日は、第1次世界大戦が始まった日で、ちょうど100年が経過いたしました。この戦争はセルビアの青年が隣国のオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫婦を暗殺したのがきっかけで開戦となりました。当初は「小さな諸戦争を終わらせる戦争」として短期間で決着がつくと皆思っていました。ところが、各国間の同盟やら思惑も絡んで見る見る世界に広がっていき、5年間も戦争が続きました。  わが国も、明治からの日英同盟に従い、連合国の一つとしてドイツに宣戦布告し、中国や南洋のドイツ支配地を直ちに攻略し、また日本艦隊は地中海のマルタを拠点として帝国海軍の技量を列強に知らしめました。その結果、戦勝国に名を連ねた日本は、青島(チンタオ)やパラオを手にし、国際連盟の常任理事国となりました。しかしこの5年間で死者1千万人すべてが「強いられた死」、「予期せぬ死」だったといえます。最近ウクライナの上空で航空機が撃墜され300人の命が奪われ、パレスチナのガザ・イスラエルでも1000人の民間人の死者が出ています。他にもシリアやイラク、アフリカの破綻国家にも死者があふれています。  戦争は、ひとたび始まれば、約束の「限定的」ではありえず、「予期せぬ死」の連鎖が待っています。戦争では、何も解決しません。戦争しない、させない技術は外交の責任だと思います。日本の外務大臣、外務省さん頑張ってください。

幹事報告
A)到着文書
1)国際ロータリー日本事務局より   
・8月のロータリーレート 1$102円  
・ロータリアン誌 8月号
2)鳥取大学より 広報誌風紋42号
3)岡山岡南RC 20周年記念誌
B)例会変更・メークアップ情報 
クラブ名 日にち・会場
倉吉中央RC 8/6(水)倉吉シティホテル
倉吉東RC 8/7(木)倉吉シティホテル
米子東RC 9/3(水)ホテルサンルート米子  
C)報告事項  
・8/5(火)は10:30からクラブ協議会です。   クラブ活動運営計画書を持参の事。

委員会報告
◎出席率報告  
7月29日 会員50名中 欠席8名 84%  
7月15日 補正後   欠席7名 86%
◎出席表彰    
霜村哲男さん(19年)田邉賢二さん(17年)  
小林弘尚さん(10年)岡森 裕さん(5年)

ビジター  
鳥取RC 安住庸雄さん

メークアップ  
7/28鳥取中央RC 伊藤教史さん  森下耀雄さん 松下栄一郎さん 植田哲朗さん  
米子南RC 宮ア正彦さん

*スマイル報告(本日5,000円 累計70,000円)
入江敏夫さん 猛暑です、皆さん気を付けてください。八頭高甲子園おめでとうございます。
森本美明さん 一瞬、秋だろうかと思えるような朝晩の涼しさです。
早退 1件
*四大御祝(本日6,000円 累計26,000円)
霜村哲男さん 田邉賢二さん
岡森 裕さん        出席表彰

「委員長・担当リーダー就任挨拶」
田村博信地域奉仕委員長(職業奉仕担当リーダー):  
まず、抱負というより、この委員会が何をするのか解らなくて、過去の週報とクラブ活動運営計画書が手元にありましたので、これらを読み返すことから始めました。若葉マークの頼りない委員長ではありますが、よろしくお願いします。  
この委員会は、他に、社会・環境奉仕担当リーダーの村上さん、新世代育成担当リーダーの塚田さんを始め総勢9名で担当いたします。 委員会の目標は、クラブ運営方針に示された、ロータリーの理念である奉仕活動・青少年育成活動において、特に「公共イメージの向上」「メディアへの広報」を、その目標としています。新たなチャンネルなど、お気づきの点があればどしどしアドバイスをお願いします。  
職業奉仕部門では、「職業は奉仕の一つ機会」、「四つのテスト」、「職業奉仕に関する卓話」、「職業奉仕賞の授与表彰」、「職場訪問」、以上5項目を挙げ、いずれも過年度を踏襲した内容としています。以上が私の抱負です。一年間よろしくお願いします。

卓話
「秦の中国統一」    福石幸生さん  
司馬遷の史記でご存知の方も多いと思いますが、その中国統一の過程についてお話しします。  
今回の卓話は2006年に中国で放映された「大秦帝国」という3部作全51話からなるテレビドラマの中の第1部に相当する部分を紹介します。  第1部は「孝公と商鞅の国政改革」、第2部は「孝公の息子」、第3部は「始皇帝の中国統一」です。  秦はBC778年に成立し、中国統一後、BC206年に劉邦・項羽により滅ぼされました。春秋戦国時代(BC770~BC221)、魏や普、周、楚、呉、越、秦などの諸侯が台頭している中の一国でした。当時、秦は西の田舎(現在の西安付近)にある貧乏な超弱小国家でした。したがって、他国からは最初に滅ぼされるであろうと人々から思われていたのですが、孝公(BC361-BC338年)の父である献公(BC384-BC362)が亡くなると、他の国々は秦国を本気で滅ぼそうとし始めますが、これは実現しませんでした。孝公は始皇帝(BC246-BC210年)の6代前の国王です。孝公は20歳の若さで、国家を継承し、43歳の若さで亡くなります。10代で結婚したのですが、息子を産んだ後、奥さんが亡くなりその後、23年間独身のまま、国家の存亡のためだけに人生をかけた方です。こうした状況で、孝公は商鞅という片腕を得て在位23年間に国政の抜本的な改革を実現し、中国統一の基盤を作りました。  
まず、孝公が他の国王と全く異なったのは、先代の王たちに対する政治評価です。普通、先代の王たちを賞賛こそすれ、批判することはありません。しかし、孝公は賞賛するところは賞賛し、批判するところは批判することで、当時の国家の状態をより客観的に表し、人材を登用するという異例のお達しを行いました。  一方、当時、強国の一つである魏にあった、商鞅は魏王のブレーンの弟子でした。しかし、商鞅は孝公のお達しに深く感銘し、魏を捨て、秦にやってきます。後に、魏王は商鞅を魏国に引き止めなかったことを後悔することになります。  
そこで、今日の主題である、商鞅の行った改革に移ります。この改革は変法と言われます。この法律の内容は、今でも残っているのですが、一読すると、最もな部分もあれば、変な印象を受ける部分もあります。  変法には、第一次変法と第二次変法があります。第一次変法の大略は、奴隷制を廃止し、階層社会のあり方を一変させます。功を上げた者は無条件で爵位を与え、罪を犯した者は無条件で爵位を剥奪し、罰を与えることでした。さらに、「疑わしきは罰せず」を徹底し、証拠が見つからない場合は、どんな場合でも、罰しないこととしました。  
階層社会を一転させるこのような政策を行ったので、既存の貴族から非常に大きな反発を買うことになります。商鞅は何度も命を奪われそうになりますが、孝公が親衛隊で護衛していましたので、命を奪われることはありませんでした。なお、犯人はわかったのですが、証拠不十分で、罰することはしなかったそうです。  
さらに、一つの家に二人以上の成人男子が居る場合、税金が2倍以上になる法もあったそうです。  この法律は、最初、うまくいきませんでした。貴族は今までの地位が脅かされるので反対しますし、民衆も口だけで、実行できないと思っていたそうです。商鞅は、うまくいかないのは民衆がしっかり法を守らないためと考え、さらに厳しく引き締めました。  ここで、全ての国民が法を遵守するきっかけとなる事件が起こります。それは、法を厳しくしても、さすが皇族を罰することは出来ないと、貴族が策略を行います。すなわち、皇太子の領土から徴収する年貢の中身をすり替え、これに怒った皇太子は年貢を納めた村の人々を皆殺しにします。これに対して、商鞅は孝公に法の執行、つまり処罰を願い出ます。孝公は迷いましたが、結果として商鞅に法の執行を許します。すなわち、皇太子の追放、後見役である孝公の兄を鼻そぎの刑にし、教育係を刺青入れの刑に処します。この後、全ての人々が法を守ることになります。孝公と商鞅が本気であるとわかったからです。その結果、法の効能が出始め、10年もすると、田畑は見事に開墾され、兵士は精強になり、国民の暮らしは豊かになり、道に物が落ちていても、これを自分のものにしようとする者はいなくなった。さらに、公孫鞅(商鞅)は「世を乱す輩」を容赦なく偏狭の地へ流した結果、法に口出しする者はいなくなり「変法」は成功を収めます。  
その後、第二次変法が施行されます。この法も斬新な改革が試みられます。たとえば、度量衡の統一です。度量衡の統一については現在、中学校や高校の歴史で始皇帝がなしたことの一つとしてよく出される問題ですが、本当は孝公と商鞅の改革によるものです。中国全土において「重さ」や「長さ」の尺度を一つに統一する理由は公正な税金の取り立てです。秦は中国最初の法治国家です。法とは、また平等とは何か、それを国や組織の中でいかに実践するか、を2400年前、真剣に考え、実行・実践したことこそが偉業といえるでしょう。現代のわれわれにとっては当たり前のことではありますが。  
孝公は43歳で亡くなります。その後、追放された皇太子が呼び戻され、王位に就きます。皇太子や鼻そぎの刑にあった孝公の兄は商鞅に恨みを持っていたことを知っているため、商鞅は逃亡します。その途中、宿泊先の宿で、「商鞅様の厳命で旅券を持たないお方はお泊めしてはならないと法律で決まっている。」と断られます。商鞅は「法の為すの幣、一にここに至るか」(ああ、法律を作り徹底させた弊害が、こんな結果をもたらすとは・・・」と長嘆息し、いったん魏に逃げ込むが、ここも追われ、封地の商で秦軍に捕らわれ、車裂の刑に処せられます。中国史上初めての刑です。  
これらの法は孝公と商鞅の二人の改革によって秦国が20年で強国になったこと、税金や軍隊、民衆の生活などの視点から現在の私達から見ても納得できるものとそうでないものがありますが、名君を継続的に輩出するためには、こうした改革が必要であり、かつ正解であったことが歴史的に証明されたと言えます。                (担当 野田英明)