大樹寺について

鳥取市の南部、JR因美線と若桜線が交差する八頭町(旧郡家町/こおげちょう)は,八頭群政の中心地であった。
大樹寺は「全国寺院名鑑」に、-旧記録を焼失して創建年代は不詳、往時は隣村、市場集落の山上にあって、家老安藤義光の菩提所であった。天正年間(1573~92)兵火にかかり、明暦年中(1655~58)現在地に再興。曹洞宗に改めて鹿野町の譲傳寺末となる。宝暦年中(1751~64)またも火災に遭うが、八世真龍が復興して今日に至る。
大樹とは、将軍または為政者の雅称。中国は後漢の将軍・馮異が、諸将の功を論ずるとき、席を退いて大樹の下に座ったという故事によるが、大樹寺の縁起に、城主の菩提寺というのも頷ける。
豊臣秀吉が鳥取城を攻略したのは、ときに天正八年(1580)である。このとき秀吉は、若桜城を陥して守りの要とした。大樹寺が焼失したのも、恐らくこの時期であろう。
譲傳寺は、鹿野町今町にある。応安四年(1372)笑巌和尚が開山。鹿野城主・亀井茲矩公の庇護をこうむり熾盛した。

大樹寺は
[中国四十九薬師霊場第四十八番札所]
[因幡薬師霊場第八番札所]
[中国楽寿三十三観音霊場第二番札所] です。