「デラミン(またはゴズ・バール)」のこと


 「デラミン」という男をご存知だろうか? マ・クベの配下でチベ級重巡の艦長にまでなった男である。テキサス・ゾーンで第13独立部隊の「ホワイトベース」と膠着状態に陥っていたが、マゼラン級戦艦の出現によってその均衡が崩れ、「ホワイトベース」の集中砲火を浴びて敢え無い最後を遂げた。だが、それはこの際どうでもよい。今回の話題はUC世界を人文学の観点から読み解くというこのHPの趣旨とは反するが、敢えて製作者側の意図なり、そこまで大それたものではないにしろネーミング・センスなりについての折檻の考えを書いてみたい。
 そもそもなぜこのような項を立てたのか、それは「天文関係固有名詞一覧」を見てもらえば了解していただけるものと思う。UC世界のネーミング、特に艦艇のそれに関して太陽系内の衛星の名前の頻度が異常に高いことがお分かりいただけるだろうか。一見してどれがそうなのか分からない人にはこれから先の文章は必要ない。また、この程度のことはとっくに了解している人にとっても見るべきものはないであろう。そのどちらでもない人を対象に話を進めていくことにする。
 さて、それでは「彗星および恒星その他」を見てもらおう。「アルデラミン」という星があるはずである。アラビア語起源の名であり、語義は「右腕」である。ご存知のことと思うが(高校の世界史では教えていると思う)アラビア語の「アル(al)」は定冠詞である。つまり英語の「the」と同様、それ自体に意味はない。ということは、字義として「右腕」を表すのは「デラミン」ということになる。ここで勘の良い人はピンとくるものがあるはずだ。そう、あの男「デラミン」もマ・クベの「右腕」ではなかったか? そういうことである。逆に言えば「ただそれだけ」のことである。だが、こういった裏街道からUC世界を見ることも時には大切なことだと思う。
 UC153年の話になるが、「ゴズ・バール」という男がいたのを覚えているだろうか? 「Gods Bar」と表記されるが、それほどこだわる必要もあるまい。ピピニーデンの策を容れウッソ・エヴィンの母ミューラ・ミゲルを人質にしたことから、終いには味方からも反感を買った男である。折檻はこの男の名前が妙に気になり、放映当時から現在まで心に抱き続けているものがあるのだ。まず「ゴズ・バール」のファースト・ネームの「ゴズ」であるが、字面から判断すると「God」=「神」ともとれる。しかし、それこそが偽りの様に思えるのだ。これほど卑劣な男に「神」の名を与えるだろうか? 逆に「神」の名を偽るものと考えた方がしっくりくる。ここからは折檻のファースト・インプレッションに全面的に依拠した文章になり、加速度的に断定調になっていくが、不愉快な向きは読まなくてよろしい。
 そもそも、「ゴズ」の英文表記など、放映当時には分かるはずもなく、まして放映当日などには分かりようがない。その中で、折檻は「ゴズ」という名を直感的に「牛頭」と聴いていた。それは彼のファミリー・ネームが「バール」であることからすれば当然の連想であろう。「バール(バアル)」とは牡牛を概念化した神の名であり、中近東を中心に生産生殖の神として広く信仰されていた。形態も牡牛ないしは牛頭の姿をとる。だが、このバール信仰は新興宗教であるユダヤ教との間に摩擦を引き起こしていく。生殖の神「バール」に対する信仰はセックスに対して解放的であり、その他の点でもユダヤ教とは決定的に相容れないものを持っていたからである。そのためユダヤ教では「バール」を全否定の対象にし、バール神の像などは徹底的に破壊された。つまり、ユダヤ教登場まで長く神として信仰の対象であった「バール」は、彼の宗教によって悪魔の烙印を押されたのである。しかし、風俗、習慣として生活に密着し、感覚的に理解し易い「バール」信仰は滅びることなく、形を変えて人々の間に定着していった。また、当時の交易ルートにのって既に世界各地へと「バール」信仰は飛び火してい た。今日、牛頭の姿をとる神、怪物、魔人等はすべて「バール」の影響を受けているといっても過言ではなかろう。そして、その「バール」信仰の東の終着点が日本だったのである。文化というのは伝播するものであり、おそらくインド、中国を経て日本に持ち込まれた「バール」は、我が国では「牛頭」と呼ばれ、恐怖の対象として知られている。地獄の物語に良く登場する「牛頭・馬頭」の「牛頭」のことである。地獄の番人であり、地獄に落ちた死者を責め苛む役を担うのである。
 以上の説明で分かっていただけたことと思うが、あるいは「神」を「価値観」なり「人生観」なりに置き換えれば分かり易いだろうか。本来、人々の信仰の対象であった「神」が新たな宗教によって全面否定され、その影響下に「悪魔」として生き長らえざるを得なかった。つまりそういう意味である。「ゴズ・バール」とは同じ意味の言葉を繰り返しただけの名前であり、これは富野監督得意の同じフレーズを繰り返す名前(「ジュンコ・ジェンコ」、「ムッチャー・メチャ」等)の一つではなかったのか? 折檻は放映当時から現在まで、この考えを捨てられずにいるのだが、諸兄はどう思われるだろうか。


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