滅収容所〜ビルケナウ〜


 今回はZMT−A30S「ビルケナウ」。 知ってる人は知っている有名な地名です。

 「ビルケナウ(ブジェジンガ)」は「オシフィエンティム」とともにポーランド人なら忘れることのできない地名でしょう。ナチス・ドイツは1939年9月1日、突如としてポーランドへ侵攻し、これに呼応したソ連とともに圧倒的な兵力でポーランドを蹂躪。秘密協定どおり、両国で分割占領してしまいます。ソ連はロシア系の地域を獲得しましたが、ナチスはドイツ系住民の多い地域を獲得し、結局、ドイツ本国に隣接する地域はドイツに編入され、その他の地域はクラクフに本拠を置く総督府の管轄下に置かれました。本国ドイツに編入された地域は純粋なドイツ人の土地とされ、ポーランド系住民は虐殺されるか、強制移住させられました。総督府の下ではポーランド人の政治、文化活動はすべて禁止され、ポーランド語も禁止されました。11月にはクラクフのヤゲヴォ大学の全教官が逮捕され、強制収容所へ送られた後、虐殺されました。大学教授、弁護士、医師、教師など知識人の多くがこのとき犠牲になりました。こうしてポーランド系住民は市民権を剥奪され、強制労働だけを押し付けられたのです。

 1940年5月、ナチス・ドイツはポーランド軍砲兵隊の兵舎を利用してアウシュビッツ第一収容所を建てました。「アウシュビッツ」とは「オシフィエンティム」のドイツ語読みです。ナチスはポーランド占領後、同国内に1000以上の強制収容所を作りましたが、そのなかでも最大のものがポーランド南部、クラクフ近郊のオシフィエンティム(アウシュビッツ)に作られた強制収容所でした。ビルケナウ(「ブジェジンガ」のドイツ語読み)はここから約3km離れたところに建てられたアウシュビッツ第二収容所で、周辺の小収容所と併せ、まとめて「アウシュビッツ収容所」と呼ばれました。アウシュビッツへのポーランド系、ユダヤ系、スラブ系、ロマ系住民の移送は鉄道貨車で行われましたが、アウシュビッツ第一収容所近くには臨時のホームが作られ、ビルケナウ第二収容所ではその中まで列車の引き込み線が引かれました。ここに到着した人々は、強制労働に耐えられる者以外は、老人、子供、病人、妊婦などそのままガス室に送られました。死体は髪の毛を切り取り、金歯や指輪を抜き取った後、焼却処分されました。1日8000体が焼かれましたが、それでも間に合わず、収容所の はずれに溝を掘らせ、薪と一緒に積み上げて焼却処分したといいます。切り取った髪の毛は洋服の芯や枕のクッションに、金歯や指輪は延べ棒にしてドイツ本国の銀行へ送られました。死体の灰は肥料に、脂肪からは石鹸を作ったりもしました。ここで犠牲になった人たちの数には諸説ありますが、1説には150万人ともいわれています。

 こうして「ビルケナウ」は「アウシュビッツ」とともにナチス時代最大の絶滅収容所として、ポーランド人にとって忘れることのできない「負の歴史」となったのです。

 こういうことを踏まえ、それでも敢えてナチスを語るのならいいんですが、最近、ファッション感覚のナチ・ファンが多いのが気になります。「だからナチ(だけ)は悪だ!」とか「戦争反対!」とか言う気はありませんが(ポーランドを解放したソ連にしてからが、勝手な憲法を押し付けて三権分立を廃止し、議席の配分を固定して統一労働者党に64%を与え、国会を閉鎖させ、教会を弾圧して関係者を逮捕し、挙げ句の果てにはユダヤ人排斥運動を扇動して学生や知識人を逮捕し、ユダヤ人を国外追放したりしていますから…)、常に胸に刻んでおく必要があるでしょうね。特に戦争ネタに美学を見出だす身としましては…。

ちょっとマジになった折檻でした。


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