不在の管理人と『不在の騎士』…又はシャルルマーニュ物語のススメ


 ここ数日ガンダムをお休みいたしまして、イタロ・カルヴィーノ(Italo Calvino)の『不在の騎士』(Il cavaliere inesistente)を読んでいたのですが、今朝6時過ぎにようやく読了しました。小品でしたが、なかなか考えさせられる一節もあり、読んで良かったと思える作品でした。といっても、本当の目的はまた別のところにあって、私自身が個人的に『ロランの歌』フェチで、しかも中世に成立していた本体部分よりも16世紀にイタリアで付け加えられた枝葉に深い愛着を抱いているものですから、後付けの枝葉部分のそのまた枝葉の後付けであるこの作品に並々ならぬ興味を引かれていたというのが正直なところです。

 御存じない方のために蛇足を承知で説明いたしますと、まずロマンス語文学としての「ロランの歌」(ロランはフランス語形、イタリア風にいえばオルランド)は、毛ほどの史実を基に11世紀後半〜12世紀前半頃フランスで生まれたもので、ガンダムでたとえるなら、これがファーストに相当する基本中の基本部分となります。

 その後、諸々の要素が付加され世界観が大幅に拡張されますが、空間的にだけではなく、君主シャルルマーニュの後年の親バカぶりや大帝死後のエピソードが追加されるなど時間的にも広がりを持ち、雰囲気としては「MSV」「センチネル」的な横の広がりとシャアvsアムロの構図で引っ張った「逆シャア」までの縦の広がりをまとめたような、ビッグバン的大膨張を果たしたわけです。
 それぞれのエピソードが、複数の吟遊詩人の手によってバラバラに拡張されていったため、各エピソード間に破綻があったりしますが、そこらあたりもガンダムと共通している部分でしょう。個人的に、ガンダムにおける80年代的膨張と性格的に良く似ていると思います。

 さて、シャルルマーニュ物語(もはや『ロランの歌』はロラン一人の話ではなくなり、各騎士を扱った武勲詩の集合体となっていくため、以降『シャルルマーニュ物語』と呼ばせていただきます)は15〜16世紀にかけてイタリアに本場を移し、勃興するルネサンス文化のなかで、プルチ、ボイアルド、アリオストといった偉大な文学者たちの手により、中世文学特有の宗教的・観念的でやや堅苦しい表現を脱し、男女の情念や登場人物の喜怒哀楽に富んだ、真の意味での文学作品として昇華していくことになります。ここらあたりのいきさつは、ややガンダムとはことなりますが、受け継がれ、新作が追加されることによって物語としてのボリュームと深みを増していったという点においては共通する点があるかもしれません。それにしても、シャルルマーニュ物語のファンにとって、正伝として認められる範囲はおそらくここまででしょう。

 硬派な中世文学者に言わせれば、『ロランの歌』とは岩波文庫やちくま文庫から出ているような、ロンスヴォーでのフランク殿軍全滅に焦点を絞った元祖ストーリーだけを指すのでしょうが、それはそれで味気ないものでして、ファンとしてはやはりカタイのアンジェリカ姫や異教徒の騎士ルジェーロ、美貌の女騎士ブラダマンテらが縦横に活躍する後付け部分を抜きにしてロランを語るわけにはいかないところです。
 「日和った」と言われるかもしれませんが、要は、中世文学としての「ロランの歌」を絶対視するのではなく、それはそれとして尊重しながらも、ルネサンス文学としての『大モルガンテ』『恋するオルランド』『狂えるオルランド』等にも等しく価値を認め、「後付けだから本家に劣る」とは考えたくないのです。
 これについては、本当にもう機会があったらルネサンス期の後伝をぜひ読んでみて頂きたいところで、田中芳樹の『アルスラーン戦記』や永野護の『ファイブスター物語』が、いかにこれらルネサンス文学の延長上にあって、そしてその想像力の翼から一歩も出ていない作品であるかが分かっていただけると思います。

 また、私のように、こうした後付け部分を尊いものだと考える人がいたからこそ、ブルフィンチの集大成が成ったのでしょう。
 またまた知らない人のために解説しますと、アメリカの著述家トマス・ブルフィンチによって、それまでバラバラでつじつまの合わなかった各外伝が大幅に構成を改められ、1862年にひとつづきの作品としての体裁を整えます。これは本当に偉大かつ困難な仕事であり、各後付け外伝など無視してしまえば彼の仕事ははるかに楽だったはずです。しかし、彼は本伝と同等かそれ以上に後伝に価値を見出だしていたからこそ、それらを切り捨てることなく、世に「ブルフィンチ版」と呼ばれる集大成版の編集に挑んだのでしょう。そのお陰で、我々は今こうして現代教養文庫でブルフィンチ版の日本語訳を手軽に読むことができるのです。
 2001年には『狂えるオルランド』の全訳が刊行されましたが、それまではブルフィンチ版以外ではその全容を知ることができず、『恋するオルランド』に至っては、どこかのイタリア文学全集に抄訳が載ったとも聞きますが、いまだその完訳は出されていないはずです。本当にもうブルフィンチ様バンザイとしか言いようがありません。

 このように「ブルフィンチ版」こそが現代のスタンダードとなった感がありますが、そのことが逆にブルフィンチ以降に追加された部分、ないしブルフィンチが集大成に加えなかった部分を「未公認」的地位に貶めてしまったという側面も否定できません。それはそれでしかたのないことで、つい先年まではアリオストの全訳すら日本では読めなかったのですから、ソースはブルフィンチ版しかなかったのです。日本のシャルルマーニュ・ファンがブルフィンチ版を絶対視していたとしても、それは仕方がないことでしょう。しかし、我々は今、アリオストの全訳を手に入れました。そこにはブルフィンチ版で省かれた部分があからさまであり、その違いをこそ、いま楽しんでいるところであります。

 こういうと、おそらく多くの人がこの考え方(非ブルフィンチ作品群の再評価)に共感していただけるものと思いますが、それでもちょっと難しいのが、異端中の異端である『不在の騎士』という作品です。ガンダムでいえば、Gセ○バーみたいなものでしょうか? なんといっても成立年代が1959年。第二次世界大戦後なのです。これはもう中世文学でもなければルネサンス文学でもありません。まちがいなく現代文学です。今、こうしている間にも書店に並ぼうとしている諸作品群と立場的にはなんら変わるところがありません。しかも、描こうとしている主題さえ、騎士の活躍や宮廷恋愛の成り行きではないのです。『不在の騎士』を認めるのであれば、今後出てくる全ての「シャルルマーニュもの」を認めるのか?という話に、どうしてもなってしまいます。

 しかし、これはどこで線を引くかというだけの話であって、16世紀の後付けがOKで、20世紀の後付けがNGという道理は、本来は通らない話だと思うのです。それでは、16世紀と20世紀の後付けのどこが違うのか?と考えますと、その違いは、おそらく作品群が一般に「研究対象」として捉えられた時、その外伝が既に成立していたか、その後に追加されたのか、ということではないでしょうか。一度研究が行われ、厳密に位置付けされた作品については、研究者としてはその後に余分なものを追加されたくないでしょうし、作品の評価が一般的に定まって後に付け足された部分は、作品の評価を下げかねない余計な付け足しであって、本家の偉大さを汚す邪魔者でしかない、と考える向きもあるでしょう。

 これは否定できない考え方であって、昨年、仕事でいわゆる羽衣天女伝説を研究したときも同じ問題に行き当たりました。「羽衣伝説」などといったところで、本来そんな事実があるはずもなく、本質的には外国のストーリーの焼き直しであり、本家だ元祖だと証拠物件を出し合ったところで、すべて後付けのまがい物でしかないわけです。ただ、時を経る中にあって、「これが天女が羽衣をかけた松だ」「この湖で天女が水浴したのだ」というような他愛無いウソが、それっぽい「物証」をでっちあげつつ人々の中に仮想歴史として定着していったかどうかの「差」でしかありません。中には観光客目当てで昭和に入ってから付加された部分もあって、それらを真面目に論じることの是非については、私たちの間でも意見が分かれたところであります。しかし、こういった線引きの難しさは、研究対象として作品を認識した瞬間から付きまとう問題であり、シャルルマーニュものにおける『不在の騎士』や、ガンダム作品群における各後付け作品への評価と似た部分でしょう。

 それでは私自身、『不在の騎士』をブルフィンチ版の外伝として付け加えるべきだと考えるのか?といいますと、この作品に対してそれほど熱くなっているわけでもなく。「あと数百年ほど経ったら、それまでの経過を無視してさりげなく取り込まれていることもないとはいえないな…」という、醒めた認識でおります。

 読んでみればわかりますが、この作品の主人公アジルルフォは「存在しない存在」であり、甲冑の中は空洞。つまり、彼は意思のみの存在であり、物質としては存在していないのです。そんな空っぽの甲冑が会話し、活躍し、その他の騎士に影響を与えるというこの「近代文学」を、中世物語の延長としてサーガの一端に加えることの愚かしさを考えれば、積極的に肯定しようという気にならない私の気持ちも、おそらく理解していただけるものと思います。
 ただ、これは気持ち上の問題であり、自分がもしシャルルマーニュものの外伝を書くとしたら、純白の騎士アジルルフォや盾持ちのグルドゥルー、若き騎士ランバルド、この作品のもう一つの主人公トリスモンドとソフロニアのカップルをことさらに否定することなく、彼らが存在し得る世界観を構築したいと考えています。

 『不在の騎士』のラストで結ばれたランバルドとブラダマンテですが、その後何らかの事情で破局を迎え、結果として彼女は『狂えるオルランド』のとおり、異教徒の騎士ルジェーロと出合って恋に落ち、幾多の冒険の末、永久に結ばれたのだろう…と。まあ、そのように考えたりして、自分の中での折り合いをつけたいわけです。
 『不在の騎士』中で描かれた、生々しい近代的ブラダマンテ像(「生活能力がなくて部屋がメチャメチャ汚い」とか「小川で用を足しているときにランバルドに覗かれて激怒」とか)についても、最初はやや面食らいましたが、作品中にも見え隠れするとおり、「ロランやリナルドですら、男としてはとても自分に釣り合わない」とする気高きブラダマンテならばこそ「フランク全軍がその総力をあげても殲滅できない異教徒勢中最強の騎士を、自分への愛ゆえに改宗させ、その末に結婚する」という派手なシチュエーションを欲したのではないか?と解釈すれば、一応は上手くフィットするのであり、それが私の思い描くブラダマンテ像とやや異なるとしても、それはそれで成り立つのではないかと思うのです。

 恋愛対象(私の場合:ブラダマンテ)の書かれ方が気に入らないからといって、それで作品を否定するほど若くもないし、青くもない…いつのまにかそんな歳になりました。ガンダムについてもそれは同じであり、サーガ全体を見据え、やや離れた位置から余裕を持って細部を検証するような、そんな余裕が大切なんだと思います。最近。特に。

 とまあ、そんなこんなで「純白の美女騎士」ブラダマンテがからむと途端に筆が暴走する私ですが、こんな駄目コンテンツでも読んだ人の中からシャルルマーニュ物語に興味を持ってくださる方が現れれば、それにまさる喜びはありません。

参考文献
トマス・ブルフィンチ=著・市場泰男=訳『シャルルマーニュ伝説』社会思想社現代教養文庫 1994
ルドヴィコ・アリオスト=著・脇功=訳『狂えるオルランド』名古屋大学出版会 2001
有永弘人=訳『ロランの歌』岩波文庫 1965
佐藤輝夫=訳『中世文学全集II ローランの歌 狐物語』ちくま文庫 1986
週刊朝日百科『世界の文学55 ヨーロッパI』朝日新聞社 2000

■オマケ