リー・マルレーンの伝説 第1章

ラーレ・アンデルセン伝


 「機動戦士ガンダム0083」でシーマ・ガラハウが指揮した海兵部隊の旗艦「リリー・マルレーン」は、彼女の強烈な個性とともにガンダム・ファンには忘れられない艦(ふね)の一つでしょう。しかし、その命名のもとになった「リリー・マルレーン」の真の姿を知る人はそれほど多くはありません。ミリタリーマニア層を中心に「それくらい知っている!」という反論がありそうですが、ちょっと待ってください。本当にそうですか? 本当にあなたは「リリー・マルレーン」について知っていますか? 「ドイツ軍の真相」ではなく「リリー・マルレーン」の真相を。そもそも「リリー・マルレーン」とは、第一次大戦に従軍した詩人、ハンス・ライプの詩集『港の小さなオルゴール』に収録された一編の詩のタイトルです。この詩がいかにして不朽の名曲として今に残ることになったのか、ここではその軍事史的側面ではなく、一人の人物に焦点を当てて、その伝説に彩られた半世紀を振り返ってみたいと思います。

 まずはラーレ・アンデルセン(ララ・アンデルセン)を紹介しましょう。彼女は1913年生まれ(伝記による)の漁師の娘で、17歳で売れない画家と結婚し、19歳で3児の母となります。典型的な貧乏人コースですが、結婚当時から俳優学校に通っており端役ぐらいはもらっていたそうです。しかし、全然芽が出なかった彼女はチャンスを求め、夫と子供を残したままスイスの舞台へ出演するためドイツを後にします。結局、1933〜37年までスイスにいたようですが、ここでスイス国籍のユダヤ人、メンデルソンと知り合い、再婚して子供と母親をスイスに呼び寄せています。しかし生活は苦しく、1937年、彼女は家族をスイスへ残したまま、出稼ぎのためミュンヘンへと舞い戻ります。

 ミュンヘン時代はキャバレー等で歌っていたようですが、ここでルドルフ・ツィンゲという作曲家と知り合い、彼がハンス・ライプの詩に触発されて作曲した「リリー・マルレーン」を贈られます。ですが、全然芽が出ません(笑)。彼女はその後、ベルリンへ移り、ここで若き作曲家ノルベルト・シュルツェと知り合いますが、彼も偶然『港の小さなオルゴール』を持っていて、その中の「リリー・マルレーン」を独自に作曲していました。不思議なことはあるもので、二つの曲を両天秤にかけた彼女は、結局、シュルツェ版を持ち歌にしました。

 そして1939年2月、ついに「リリー・マルレーン」にレコードプレスのチャンスが巡ってきます。彼女も発売元のエレクトローラ・レコードもこれに期待をかけますが、結果は惨敗。一説によると60枚しか売れなかったそうです。彼女は自分の限界を悟り、「地道にやり直そう」と子供達をベルリンに呼んで(さすがにこの当時、ユダヤ人の夫をドイツに連れてくることは難しかったようです)つつましやかな、その日暮らしの生活を始めます。

 これで「第一部・完」では「リリー・マルレーン」は無名のままで終わってしまうのですが、ご想像の通り、その後に転機が訪れます。1941年初秋、人知れず暮らす彼女のもとに突然、怒涛のようなファンレターが送られてきました。差出人はすべて前線の兵士たちで、アフリカからのものが最も多かったそうです。クルト・リースの『レコードの文化史』によると事情はこうです。彼女が2年半も前に吹き込んで、世間ではとうに忘れ去られていた「リリー・マルレーン」ですが、これに関わった人たちのなかには、いまだに「これ」を引きずっている人たちがいました。ベルリンはライプツィヒ街にあるエレクトローラ・レコードの販売店には在庫が山積みとなり、経営者にとってこの不良在庫は悩みの種でした。ここにまたまた偶然ですが、軍の前線慰問担当将校(マックス・イッテンバッハなる人物とされます)が訪れ、ポンと大金を置いて店員に勝手にレコード200枚を選ばせるというムチャをやりました。今も昔もお役所ってのはこういうもんです。もちろん店員が売れてるレコードなんて入れるワケはなく、この"全然売れない"「リリー・マルレーン」などは2枚も忍び込んで いました(笑)このとき軍に納入されたリリー・マルレーン2枚のうち、1枚が有名なベオグラード放送局に持ち込まれることになるのです。

 また、パウル・カレルの『砂漠のキツネ』によると、ドイツが戦争を始めてしばらくたった頃、第二装甲中隊のある曹長が「リリー・マルレーン」を耳に留め、無理矢理仲間達に聞かせたところ、この曲が中隊内でヒットします。やがて動員令が下り、この曹長は少尉となってベオグラード放送局に転属になり、中隊はアフリカ戦線へと移動しました。少尉はもとの中隊の仲間へのプレゼントとして、懐かしい「リリー・マルレーン」をかけました。これがアフリカで大ヒットし、この放送を聴いた英国軍によって連合軍にも広く知れ渡るようになったそうです。

 さて、こうして本人の知らぬ間に大ヒットしたラーレ・アンデルセンの「リリー・マルレーン」ですが、皮肉なことにこれが彼女の人生を大きく狂わせます。前線慰問へ駆り出され、かわりに軍からは「大スター」にふさわしい待遇が与えられましたが、彼女の絶頂期は実に短いものでした。1942年夏、イタリアでの演奏旅行に出かけた彼女は、突然ゲシュタポに逮捕されてしまいます。イタリアに行った彼女は、そこからスイスの夫と手紙で連絡を取り合いますが、そこにはスイスへの亡命を薦める内容と、その方法が書かれていました。彼女は夫に会うため手紙で指定された列車へ乗り込みますが、これは全てゲシュタポのワナだったのです。当局の追求に疲れた彼女は睡眠薬を使って自殺を図りますが、幸い早くに発見されて一命をとりとめます。遅かれ早かれ自分は処刑されると感じていたための自殺未遂でしたが、偶然にもイギリスからのラジオニュースが彼女の命を救いました。BBC放送は対ドイツ向け放送で「あなたがたのあこがれの"リリー・マルレーン"を歌ったララ・アンデルセンは最近収容所に入れられて、そこで死んだ」と報道したのです。ナチスの非道を宣伝するた めの作戦でしたが、この放送を「デマである」と否定するために、ナチスは再び彼女の元気な姿を国民の前に示さなければならなかったのです。しかし、ゲッペルスはリリー・マルレーンを放送禁止にし、この原盤を持つエレクトローラ社に対して原盤を破棄するように命令しました。そして、彼女がリリー・マルレーンを歌うことをも禁止したのです。

 この時期戦局はいよいよ悪化し、彼女の長男も15歳で招集されました。すべてに疲れた彼女は14歳になる次男を連れて密かにベルリンを脱出します。彼女が行き着いた先は北海の孤島「ランゲウォング島」でした。そこで彼女はじっと息をひそめ、戦争の終わるのを待ったのです。彼女は生き残りました。しかし、敗戦に打ちひしがれる戦後のドイツは、彼女の歌を必要としていませんでした。さらに50年代になるとビート音楽が流行し、古臭い歌謡曲は人気が急速に失われていったのです。彼女は民謡歌手に転向して再スタートしますが、鳴かず飛ばずだったようです。1972年8月29日、彼女は自伝のキャンペーン中にウィーンでその生涯を閉じました。

 最後に、リリー・マルレーンには4種の綴りがあります。
 「Lili Marlen」アンデルセン初回版
 「Lili Marleen」アンデルセン後期版
 「Lili Marlene」マレーネ・ディートリヒ版
 「Lilli Marlene」英語版、イタリア語版
 シーマの艦はアンデルセン後期版の綴りを採用しているようです。
 マレーネ・ディートリヒ版は、この曲を連合軍向けに歌って大ヒットさせたマレーネ(Marlene Dietrich)が、自分の名前とひっかけて綴りを変更したものです。
 彼女の一生も凄まじいドラマですので紹介したいのですが、さすがに長いので今回は割愛させていただきます。


語源集へもどる