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週報第12号
No.12
本日の例会
2003年9月30日(火) 第2114回
唱 歌 赤とんぼ
献 立 洋食
委員会事項 出席表彰
卓 話 「ロータリー財団のいろは」
地区ロータリー財団  
副委員長 涌本祐之氏

次週の例会
2003年10月7日(火) 第2115回
君が代・奉仕の理想
献 立 米山ミール
委員会事項 誕生日御祝
卓 話
※例会終了後定例理事会VIPルーム

前回の例会
2003年9月16日(火)
会長挨拶
 本日のゲスト卓話は、鳥取敬愛高校の社会部の2年の立山さん、1年の小山さん、顧問の川本先生です。立山さんは鳥取RCが提唱されているインターアクトクラブの会員です。9月10日には多久二郎さん、又山根敏男さんのご尊父武さんの葬儀が同じ日に行なわれ時間的にも山根家その後の多久家の葬儀にクラブの皆様多数参列して頂き有難うございました。多久家の喪主の多久和利さんが皆様にのちほど御挨拶されます。
 さて、昨年インターアクトクラブが設立されました。先々週鳥取ローターアクト地区代表を迎えての公式訪問が行われ、その時、ローターアクトの活性化の為にも会員増強の為にもインターアクトクラブの皆様に一役かってほしいという意見がありました。毎年24時間テレビバザーを行っています。今年はインターアクトクラブにも参加して頂きました。高校卒業されて鳥取に残られるのならローターアクトクラブに是非入会して頂きたい、クラブの活性化、会員増強の為にも是非協力おねがいしたいという意見が多く出されました。
幹事報告
(到着文書)
・国際ロータリーより ザ・ロータリアン誌9月号
・倉敷中央RCより 事務局移転通知
 移転先 〒710-0833 倉敷市西中新田419 -5
 TEL086-427-2055 FAX086-427-2099
 E-mail kurashiki _chuorc@ybb.ne.jp
・週報 浜坂RC 鳥取RC
(当クラブ連絡事項)
・次週9/23は休会
・9/28 鳥取砂丘一斉清掃 9:30 県営駐車場集合
 駐車券はRC事務局まで申し出て下さい
会葬御礼挨拶
 元会員多久二郎の息子の和利です。9月8日会員の山根敏男さんのご尊父武さんと時を同じくして息を引き取りました。皆様には忙しいにも拘らず御弔問して頂き又9月10日には御会葬して頂き有難うございました。会長はじめ皆様には大勢参列して頂き又竹田先生には心のこもった弔辞を頂きました。又、福田幹事、北中さんには受付けの手伝いをして頂き、父は心よく旅立ちました。父は生前会報、又法人会の因幡誌のコラムを担当し、原稿は私が清書していました。父の思想を私がなぞることを期待していました。父は戦後に素人の身で商売に入りましたが、皆様のお教えを有難く思っていました。又友情を心より楽しんでいました。皆様に心より感謝申しあげ御礼の挨拶とします。本当に有難うございました。
委員会報告
◎出席率報告
 9月16日 会員66名中 欠席19名 71.21%
 9月2日 補正後 欠席3名 出席免除13名 94.34%
◎創業記念日御祝
 入江宏一さん 瀧本紀晴さん 花原 俊さん
 小原 誠さん 平井克典さん 大羽孝義さん
ビジター
 鳥取RC 上原 浩さん 中尾喬一さん
 鳥取西RC 加藤一吉さん
メークアップ
 9/12 米子RC 大羽孝義さん
スマイル報告(本日46,000円 累計313,000円)
加藤一吉さん(鳥取西RC) 久し振りにお世話になります。
多久二郎さん(冥界への途上にて) 大勢の会員の皆様に力強く「異議なし」の声で送り出して頂いたのが嬉しくて
山根敏男さん 亡父の葬儀ではお世話になりありがとうございました。
山口雄造さん 故多久二郎会員の葬儀には「クラブ」より尾崎会長外大勢の会員の方にお見送りをいただき厚く御礼申し上げます。
森下耀雄さん 人は年を重ねるだけで老いるのではない。「感動」「趣味」「笑い」があればそれは青春だそうです。(敬老の日に寄せて)
早川慶子さん 暑さにもめげず毎年恒例のクラス会に名古屋迄行って来ました。時々は都会の空気も良いものです。
木村知己さん @多久さんのご冥福をお祈り致します。 A鳥取敬愛高校社会部生徒の話を聞いてやって下さい。
小原 誠さん @NHK新日本紀行「砂丘農民」の再放送がNHK総合テレビで9月25日午後5時8分頃より放送されます。長らく延期になりすいませんでした。 A北中さんには大変お世話になりました。
松下栄一郎さん 野田先生ありがとうございました。TVに出させて頂きました。
植田哲朗さん
坂根 徹さん
結婚記念日
大羽孝義さん 14日に三徳山投入堂登頂しました。ころんで、すべって傷だらけです。会員のみなさまのご健康をお祈りしてきました。
早退6件
鳥取敬愛高校社会部顧問川本収教諭挨拶
 本日はこの様な会に呼んで頂き有難うございます。これから1年生と2年生2人が発表しますが、初めてですのでレジュメに沿って読むことで発表させて頂きます。我々の社会部の活動の歩みを一枚ものに記していますが、平成元年より15年間いろんなテーマを調査研究していますが、主に同じ顧問の小山先生が活動の中心になっています。彼は社会の教員ですので私の仕事は彼を車に乗せて連れて行くというだけです。今年3月高円宮妃殿下が学校に来られました。自分の旧姓の鳥取という姓が不思議だということから我々の研究発表を聞いて頂きました。9頁に全国の鳥取という地名がのっておりますが、鳥取という地名はたくさんあるのだなあと感慨深く感じています。
卓 話 「地名の“鳥取”、苗字の“鳥取”」
鳥取敬愛高校社会部 立山 萌さん(2年生)
小山景子さん(1年生)
 「鳥取」という文字が初めて登場するのは712年に完成した我が国最古の歴史書で、稗田阿礼が誦習していたものを太安万侶が筆録した「古事記」である。その編さんの材料となったのは、六世紀半ばにまとめられた大王の系譜と、朝廷の説話・伝承であると言われている。少し遅れて720年に完成した「日本書紀」にも「鳥取」が登場する。
 「古事記」では、私たちにもなじみのある須佐之男命の大蛇退治や因幡の白兎の話しと一緒の中巻に、もの言わぬ皇子の話の中に登場する。一方「日本書紀」では、垂仁天皇紀に出てくるがその記述は必ずしも同じではない。また、「ものいわぬ皇子」と似た話しが、「出雲国風土記」「尾張国風土記」にも出ている。
古事記と日本書紀に見る「もの言わぬ皇子」の話の内容の相違点
 平安時代につくられた、日本で一番古い百科事典といわれている「倭名抄」に出てくる「鳥取」という地名についてみると、国名・郡名にはないが、郷名として七つがある。(資料P.7参)いずれも古代「鳥取部」の居住地とされている。「鳥取部」というのは鳥を捕ることを専門の職業として朝廷に仕えていた部民とされるが、捕えた鳥は食用にするのではなく、天皇の陵墓の堀などに放す「白鳥」や「鶴」であったとされる。七つの「鳥取部」も鳥の飛来地となる湖沼あるいは潟や川の近くに位置するものが多く、鳥を取る職業の品部の「鳥取部」がいたことは当然考えられる。
 しかし、「姓氏家系大事典」によると「鳥取部」は全国19の国に分布していたことが分かっており、そうするともっと多くの「鳥取」地名があったとしてもおかしくない。実際、「大日本地名辞書」では中世以後「倭名抄」に出てこない多くの「鳥取」地名があったとされており、「倭名抄」が当時の地名を全て網羅していたとは考えにくい。姓氏家系大事典に掲載の鳥取部は18ある。(資料P.7参)
「鳥取」姓の分布
 全国の電話帳より「鳥取さん」をさがしだしてみると、鳥取県には鳥取姓がいないことがわかりました。(資料P.11参)
 また、全国各地の鳥取一族の「鳥取」姓の由来・伝承についてアンケートを実施(資料P.12〜P.14参)
 地名の鳥取と苗字の鳥取は、最初の段階ではセットで考えなければならない。苗字の鳥取もやはり古事記と日本書紀の「もの言わぬ皇子」にさかのぼる。成人しても、ものがいえなかった本牟智和気王がある日、空を飛ぶ鳥を見て片言をおっしゃったので、天皇がその鳥を山辺之大 に捕まえるように命令された。日本書紀では山辺之大 ではなく、湯河板擧命になっているが、見事に捕まえた湯河板擧に「鳥取造」という姓を与えて、鳥を捕る専門職業集団として「鳥取部」が置かれた。
(この他、アンケートの集計結果の分析や鳥取関連地名、家紋についてなどの発表があった。資料は25頁にも及んだ。)
(担当 松田 剛)


『古事記』 『日本書紀』
皇子の名 本牟智和気(ほむちわけ)王 譽津別(ほむつわけ)王
皇子の記述 成人しても、ものを言ったことがない。 譽津別王は三十歳になり髯が長く伸びるようになっても物を言わない。
鳥を見た時の皇子の反応 「阿藝登比為(あきとひす)」(小児などが片言でものを言う意) 「是何物ぞ」と喋った。
鳥を捕まえた人物 山辺之大(やまのべのおほたか) 天湯河板擧(あめのゆかわたな)
鳥を捕まえた場所 紀伊→播磨→因幡→丹波→但馬→近江→美濃→尾張→信濃と追い求め、高志(越)国の和那美の水門で 出雲国で(或人曰く、但馬國で)
鳥を捕まえた後の皇子の反応 ものを言いたげであったが、意のごとくにものを言うことは叶はなかった。 譽津別命、是の鵠を弄んで、ついに言語(ものいう)ことができた。
捕まえた者への褒美 記述なし 「湯河板擧に賞(たまひもの)す。即ち姓を賜ひて鳥取造」と曰ふ。因りて亦鳥取部(ととりべ)・鳥養部(とりかひべ)・譽津部(ほむつべ)を定む。」*ここで終り
夢の中の言葉*夢を見た人……垂仁天皇「私を祭る宮を天皇の宮殿のように造るならば御子はきっとものを言うであろう」御子への崇は出雲大神である大国主神の意思
その後の行動 曙立王(あけたつのおおきみ)と弟の莵上王(うなかみのおおきみ)を御子に従わせて出雲に行く。行く先々で品遅部を定めた。
皇子がしゃべった最初の言葉 「この川下にある青葉の山のようなものは、山のように見えるが本物の山ではない。もしかしたら出雲の石 之曾宮に鎮座される葦原色許男大神(大国主神)に斎み謹んで仕える神主ではないか」
最後の部分 「莵上王を返して神の宮を造らしめたまひき。是に天皇、其の御子に因りて、鳥取部(ととりべ)・鳥甘部(とりかひべ)・品遅部(ほむぢべ)・大湯坐(おほゆゑ)・若湯坐(わかゆゑ)を定めたまひき」※「鳥取部」を設けた記述で終っている。

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